終活支援〜最初で最後の父親孝行(1)父と駅そばと私たち [日記]
思えば去年は母親孝行の年だった。
古いスピーカーを、アンプを買ってつないだり、
老人会の催し物の動画をDVDに焼いたりした。
その後、珍しく父親からヘルプの依頼があった。
「加古川の部屋を片付けたい」
加古川の部屋というのは
加古川市にある父の生家のことだ。
そこに今も残る自室の私物を
きれいにしたいと言い出した。
これは、父の終活なのか。
父は、何でも自分でやることによって
心身の衰えを防ぐ、という考え方をしていた。
なので、何かを頼まれることは稀だった。
滅多にない機会なので、
息子と、息子の嫁とで全力でサポートしよう。
* * *
3連休があったので、何とか日程調整できた。
まず大阪市内で大きめのレンタカーを借りた。
タウンエース、日帰り8時間で約8000円。
そこに、ホームセンターで買った段ボール、
10箱セットを積み込んだ。もちろんガムテープも。
これが約2000円。
そして、2人で加古川市に向けて出発した。
高速道路料金がかかる。
ガソリン代ももちろんかかる。
だが、これを父に請求するかというと
してはいけない気がする。
珍しく高速道路は空いていて
我々は順調に進んだ。
明石SAで、ジューシーな甘酢だれのたこ天むすと、
黄麺が入っている「まねきの駅そば」のセットを
二人でゆっくり食べ、時間が経つに任せる。
父は今、大阪府南部からはるばる電車を乗り継いで、
ひとりで加古川駅へ向かっているだろう。
私が子供の頃、祖父母の家に連れて行ってもらったのと
同じ経路で。
あの頃は、新今宮駅で乗り換える時に
立ち食いそばを食べるのが儀礼だった。
あの店は何年も前に閉店して、
南海そばが近くにオープンしたが、
父は今ひとりで、そこで食べているかもしれない。
昭和の終わり頃、父が加古川の祖父母を訪ねる時、
最初は私と2人だけだった。
平成の初め頃になると、兄妹3人全員を
連れて行くようになった。
今思うと、よく父親ひとりで子供3人を
電車で3時間くらいかけて連れていったものだ。
あの頃は、母が週6日働いていたから、
母へ休息をプレゼントする意味も
あったのかもしれない。
久しぶりに昔のことを考えると、
色々なことに気づく歳になった。
もう、あの頃の父より歳上だ。
(MyEdit AI画像)
古いスピーカーを、アンプを買ってつないだり、
老人会の催し物の動画をDVDに焼いたりした。
その後、珍しく父親からヘルプの依頼があった。
「加古川の部屋を片付けたい」
加古川の部屋というのは
加古川市にある父の生家のことだ。
そこに今も残る自室の私物を
きれいにしたいと言い出した。
これは、父の終活なのか。
父は、何でも自分でやることによって
心身の衰えを防ぐ、という考え方をしていた。
なので、何かを頼まれることは稀だった。
滅多にない機会なので、
息子と、息子の嫁とで全力でサポートしよう。
* * *
3連休があったので、何とか日程調整できた。
まず大阪市内で大きめのレンタカーを借りた。
タウンエース、日帰り8時間で約8000円。
そこに、ホームセンターで買った段ボール、
10箱セットを積み込んだ。もちろんガムテープも。
これが約2000円。
そして、2人で加古川市に向けて出発した。
高速道路料金がかかる。
ガソリン代ももちろんかかる。
だが、これを父に請求するかというと
してはいけない気がする。
珍しく高速道路は空いていて
我々は順調に進んだ。
明石SAで、ジューシーな甘酢だれのたこ天むすと、
黄麺が入っている「まねきの駅そば」のセットを
二人でゆっくり食べ、時間が経つに任せる。
父は今、大阪府南部からはるばる電車を乗り継いで、
ひとりで加古川駅へ向かっているだろう。
私が子供の頃、祖父母の家に連れて行ってもらったのと
同じ経路で。
あの頃は、新今宮駅で乗り換える時に
立ち食いそばを食べるのが儀礼だった。
あの店は何年も前に閉店して、
南海そばが近くにオープンしたが、
父は今ひとりで、そこで食べているかもしれない。
昭和の終わり頃、父が加古川の祖父母を訪ねる時、
最初は私と2人だけだった。
平成の初め頃になると、兄妹3人全員を
連れて行くようになった。
今思うと、よく父親ひとりで子供3人を
電車で3時間くらいかけて連れていったものだ。
あの頃は、母が週6日働いていたから、
母へ休息をプレゼントする意味も
あったのかもしれない。
久しぶりに昔のことを考えると、
色々なことに気づく歳になった。
もう、あの頃の父より歳上だ。
(MyEdit AI画像)
2024-02-26 20:00
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